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~もっと、知り“愛”たい❤ふれ“愛”たい~
国際理解講座「ブラジル日本移民100 周年」
平成21年1 月24 日(土)栗東市中央公民館
いつもなら外国の文化や習慣を知ろう!という内容で開催される国際理解講座ですが、
今回は『身近に住む日系の方とのおしゃべりDAY』というタイトルで、
ブラジルへ渡った日本移民の歴史と、
ニュースでも、たびたび取り上げられている日系ブラジル人の「雇用問題」についてお話を伺いました。



河野さん(左) 岡さん(右)

河野さんはブラジルで生まれ高校までブラジルで過ごされ、その後日本の大学へ。
栗東国際交流協会(RIFA)にもポルトガル語通訳として最近まで在職されていました。
河野さんのコラム(koryu4号)
現在は、愛荘町で通訳のお仕事をされています。

岡さんは小学6年生の途中で、家族と一緒に日本に来られました。
中学校に入るまでの数か月は、家で独学で日本語の勉強をしていましたが、
中学校の授業などは非常に苦労されたそうです。
今は、水口の市役所で日系ブラジル人に対する
  ・履歴書の書き方
  ・面接の仕方
  ・求人票の翻訳
など日系の人達のために尽力されています。
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日本からブラジルに渡った1世の時代、そして2世3世と
生活の変化や現在の状況などお話を伺いました。


ブラジル移民の歴史

笠戸丸 1908年、サントス港にて

1908年(明治41年) -
皇国殖民会社(社長:水野龍)の依頼により、
ブラジルへ第一回移民(781名)が笠戸丸に乗船。サントス港に向け神戸港を出航


笠戸丸について

笠戸丸は6000総トンで平均速度約10ノット。船足は遅いが長距離航行に優れており、明治時代後期から昭和初期にかけて、外国航路や内台航路(当時)用の船舶として用いられた。ハワイやブラジルへ移民が開始された時に移民船として使われたことでもよく知られている(移民用としては、船底の貨物室を蚕棚のように2段に仕切って使用した。最大1000人程度の移民を収容できたようである)。

※記事と写真「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」より引用

厳しい雇用状況

世界同時不況の影響で派遣労働者の契約解除や突然の解雇などニュースでたびたび取り上げられています。
日系ブラジル人、日系ペルー人など日本に働きに来ている人のほとんどは派遣労働で仕事に就き、住居も派遣会社が用意した住宅に住んでいます。仕事がなくなり収入と住宅の両方を一度に失う人も少なくありません。


湖南市国際協会KIAの松尾 隆司さん(写真中央)もご参加いただきました。
湖南市は外国人比率が約6%(約3000人)で、現在のように厳しい雇用状況では、
行政の相談窓口に非常に多くの方が来られるという事です。

湖南市国際協会の取り組みなど意義深いお話を伺いました。


ブラジルの文化に触れる



厳しい話の後、雰囲気をガラリと変えて、ブラジルグッズを参加者みんなで楽しみました。滋賀県国際協会「ブラジルボックス」
ブラジルのお金、ピラニアの剥製、赤ちゃん人形などボストンバックの中には面白いものがいっぱい!






河野さん手作りのブラジルのお菓子ブリガデイロと、
ブラジル食材店で購入したコシーニャというツナコロッケ。
揚げたてのアツアツでとても美味しくいただきました!

参加してみた感想

今回の国際理解講座は、厳しい雇用環境の中非常に“重くのしかかる現実”に私たちの社会をどのようにしてゆくのか考えさせられるものでした。

[[ 参加者の意見 ]]

・「目の前に問題山積みなのに、楽しいイベントばかりしているRIFA」から脱却できた
・自分自身が勤める工場でも、派遣社員(ブラジル人多数)の人数が減った。「声をかける勇気」「派遣切りを食いとめる努力」など、とても反省させられた。
・できれば「私たちに何ができるか」という前向きな話し合いで会を締めくくりたかった。
・河野さん手作りのBrigadeiro(ブリガデイロ:コンデンスミルクとココアのチョコレート)がおいしかった☆
・滋賀県国際協会のブラジルボックス、マテ茶や魚の鱗(爪磨きに使う!?)など、珍しいものが満載だった。
・一概に「派遣=弱者→救済」という式を作ってもいけないと思うし、なんというか・・・むずかしぃ~~~